![]() |
学校法人聖公会聖ヨハネ学園四恩幼稚園住所:〒410-0038 沼津市三芳町3番14号 |
1929年
四恩幼稚園のはじまり
学校法人聖公会聖ヨハネ学園四恩幼稚園(以下、四恩幼稚園)は日本聖公会横浜教区沼津聖ヨハネ教会(創立1888年)の付属幼稚園として1929年(昭和4年)に誕生した、沼津市内で最も長い歴史を持つ幼稚園です。 1986年(昭和61年)に学校法人聖公会聖ヨハネ学園となり、親子、孫、3代にわたる卒園生も増えてきました。 1929年(昭和4年)4月、わたしたちの四恩幼稚園は教会付属の施設として地域社会に幼稚園を通して宣教することを目的として、現在の地に開設されました。 初代の園長には飯田耕一郎(後の四恩幼稚園第5代園長飯田鳳夫司祭のご尊父)を選任。 主任には、英国留学から帰国した南岡春江教諭、新卒の教師として、村山愛子教諭(後の佐々木愛子)と渡辺ゆき教諭が採用されています。「宣教 90年小誌沼津聖ヨハネ教会」に寄せた佐々木愛子さん(旧姓・村山)の”私の中にある母教会”によれば、「教会が移転を機会に敷地も広いので、幼稚園を兼設した」そうです。設立の動機がなんとも言い難いものではありますが、ここに、沼津市で最も古い幼稚園である四恩幼稚園は歩みをスタートしていくこととなり、宣教の器としての歴史を刻んでいくのです。
1932年
四恩幼稚園試練の時期
記録によると、ミス・サマベル、ミス・エドリン、ミス・シメオンら、教会の宣教・幼稚園の草創期に尽力した外国人夫人宣教師らは働きに一つの区切りがついたと見え帰国したとあります。しかし、これは推測にすぎませんが、その背景には、帰国した年に起こった満州事変をきっかけとして、日本が右傾化していき、軍部の影響力が国内外で増大し、身の危険を感じていたのではないかと考えられます。 1936年(昭和11年)、二・二六事件が勃発。このことをきっかけに日本の軍国主義化、ファシズム化は決定的となります。つまり、軍靴の足音が次第に高くなって来たということですが、日本のキリスト教信者たちは、天皇制と信仰の狭間に立たされ、やがて弾圧という困難な時代を迎えることになるのです。キリスト教保育を中心とする四恩幼稚園にとっても時勢の変化は決して無関係ではありませんでした。 戦争の影がちらつく中、嬉しいニュースがもたらされます。1936年(昭和11年)のことでした。 四恩幼稚園初代の園長であった、飯田耕一郎氏の長男、飯田鳳夫氏(四恩幼稚園第5代園長)と貝塚郁子氏が結婚されることに、また、初代教諭であった、村山愛子教諭が4月27日佐々木正市氏と結婚することになります。人びとの心が焦りを覚え始める時代の中にあって、特に四恩幼稚園にとっては大変嬉しいできごとであったことでしょう。 1944年(昭和19年)頃から戦局は激しくなり、翌年の1945年(昭和20年)1月になると、沼津は激しい空襲を受けるようになりました。教会での礼拝中に空襲警報が鳴り響き防空壕に飛び込むという事態もあったそうです。爆撃は、第二次、第三次と次第に激しさを増し、犠牲者も増えていきました。この頃になると、主日礼拝の出席者は一人もいないといったことも珍しくなかったようです。沼津空襲以降、官庁からの達しで、四恩幼稚園はすでに休園していたようですが、ピアノやそのほかの備品をどこか安全な場所に移したいと思い焦燥していた、と当時の牧師であった山崎亀三司祭の記録に思いが残されています。
1945年(昭和20年)7月17日、沼津市内一面が大空襲によって焼かれることになります。四恩幼稚園も無関係ではなく、宣教師館と呼ばれる建物を残してすべてが焼失してしまいました。焼け跡の片付けは、当時の牧師であった山崎亀三司祭の仕事となり、新しい希望、何もかも新しく始めるという喜びに燃えての作業であったようです。幸いなことに、この空襲によって園児の命が失われたという記録は残されていません。わたしたちにの幼稚園には一枚の写真が残されています。それは、空襲によって全てを失った幼稚園の最初の卒園式でした。戦争という悲劇にあいながらも諦めることせずに幼児教育に邁進した先人たちの努力に心より敬意を表したいと思います。
1945年(昭和20年)7月17日、沼津市内一面が大空襲によって焼かれることになります。四恩幼稚園も無関係ではなく、宣教師館と呼ばれる建物を残してすべてが焼失してしまいました。焼け跡の片付けは、当時の牧師であった山崎亀三司祭の仕事となり、新しい希望、何もかも新しく始めるという喜びに燃えての作業であったようです。幸いなことに、この空襲によって園児の命が失われたという記録は残されていません。わたしたちにの幼稚園には一枚の写真が残されています。それは、空襲によって全てを失った幼稚園の最初の卒園式でした。戦争という悲劇にあいながらも諦めることせずに幼児教育に邁進した先人たちの努力に心より敬意を表したいと思います。
1946年
四恩幼稚園の過渡期
戦後の1946年(昭和21年)、天皇陛下の人間宣言が発表されました。また、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)指導による新憲法が11月3日に公布され、翌年に施行されます。 1947年(昭和22年)には、四恩幼稚園も再開されることになりました。戦後の混乱期を経て、日本が着実に復興へと歩んでいく時代でした。1950年(昭和25年)には驚くべき早さで現在の地に移ってから2つ目の聖堂が建てられます。少し時代は先に進みますが、戦前・戦中・戦後と長きに渡って困難とともに、教会・幼稚園を支えて来られた山崎亀三司祭は、1965年(昭和40年)に沼津を離任され伊豆に移られました。後任には松坂勝雄司祭が着任。四恩幼稚園の園長も兼任されます。この頃にはすでに、園舎も戦後の悲惨な状態から復興していたと見られ、教会の記録には当時すでに老朽化していた幼稚園園舎を改築すべく、バザー開催等の様々な努力がなされたことが書かれています。当時は、週日は聖堂が保育室として用いられていたことが最も大きな園舎新築の理由としてあげられるでしょう。特に在任中の松坂司祭は、聖堂は祈りの場であるからことさら別の独立した保育室を望んでおられたようです。しかし、教会には資金はなく、SPGから資金を借りることにしたようです。その返済のため、様々なツテをたどって映画の上映会を行い、また、沢聖マルコ幼稚園の例にならい、園債を発行し資金調達を行っていました。そして、ついに1967年(昭和42年)2月に、新しい宣教の器である四恩幼稚園園舎は戦後の状態から復活し、2代目となる新築園舎が与えられることになり園児たちの笑顔とともに新生四恩幼稚園がスタートしたのでした。
1977年
学校法人化への動き
1977年(昭和52年)3月1日付で長野睦司祭(前理事長)が着任され、1984年(昭和59年)5月26日まで沼津で勤務されます。長野司祭の沼津着任とともに、四恩幼稚園の学校法人化を目指す動きが計画され、当時の飯田鳳夫園長らによって本格的に動き始めます。宗教法人立から学校法人化を目指す動きの理由としては、この頃、第二次ベビーブームが終わり、長期にわたる園児数の減少が予想されていたからでした。行政側もこのような状況に対応するために学校法人化を強く進めている時期でもありました。また、保育料のみに頼る経営の不安定さから経営基盤の確立をはかりたい園の意向も相当にあったようです。この当時、教会委員の一人であった湯山孝兄(後の園長)は、積極的な議論を行い、1979年(昭和54年)11月に行われた横浜教区定期教区会に上申するなどして、教会だけではなく、教区をも巻き込んで学法化の風を起こしました。結果、1988年(昭和63年)に四恩幼稚園は先人たちの並みいるご努力により文部省(現・文部科学省)によって学校法人として認可を受けることができ、より一層、教会が幼稚園に取り組む決意を新たにすることになります。しかし、学法化に尽力されこの時、園長として重責を担っておられた湯山孝氏は、認可を受ける3年前の1985年(昭和60年)5月1日にご逝去され、あとを託された久島愛子姉が園長として遺志を受け継ぐことになります。
2022年以降
新たなる旅立ち
1967年(昭和42年)2月に完成した園舎は時代の波とともに少しずつ時を刻みながら、しかし、思い出を蓄積しながら老朽化という歴史を経て行きました。先人が築き上げた、2代目園舎に別れを告げ、現在の青空に映える 3代目園舎が1987年(昭和62年)に完成することになります。前項でも説明したように、この翌年、学校法人化へと移行して、盤石な体制を整えることになります。現在も、四恩幼稚園は沼津の地にあって、多くの方々に励まされ、愛され続け、創立100年も間近に迫って参りました包容力のある園長、指導力のある主任、そして、頼もしい担任の先生たちや補助の先生と職員。何よりも四恩幼稚園を心から楽しんでいる園児たちに囲まれ、次の区切りである100年目を目指します どのような立場にあって長い歴史の中で一人ひとりが主人公として、この希望に満ちた器をさらに成長させていくために、これからも四恩幼稚園は輝き続けていくのです。